井上靖の人生

「わが母の記」は井上靖の自伝的な小説です。文化功労者・文化勲章も受賞している井上靖にクローズアップしてみます。

個人的には『蒼き狼』を学生時代に読み、なんてスケールの大きい話だとばかりに、『蒼き狼』にのめり込みあっという間に読み込みました。そしてまだ一度も見たことが無いモンゴルの草原に思いをはせ、『蒼き狼』をきっかけに『モンゴル』に対する興味がわき自分なりにモンゴルについていろいろ調べたことがあります。井上靖の書く本は、スケールの大きく壮大な歴史の本というイメージが『敦煌』などでも感じました。

プライベートでは数十年に渡る愛人からの暴露本もあったりしますが、編集者でもあった愛人の存在が井上靖の執筆活動の湧き出る泉だったのでは?!とも思います。そしてなによりも、家庭を支える井上靖夫人の存在はなによりも井上靖にとって、大きな存在だったのではないでしょうか。解剖学の世界的権威となる父を持つ家庭の生まれたふみ夫人です。

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井上靖のプライベート

ふみ夫人は、極貧を覚悟の上で結婚をしたと述べています。今の世の中、専業主婦になりたい。働きたくない。夫がしっかり稼いでくれないと嫌だと結婚しない女性が増える中で、極貧を覚悟したうえで結婚するという強さ。心意気。これはなんとすごいことでしょう。夫を自分が育て上げてみせるとばかりに、結婚してから69歳まで井上靖を自由にさせた。なぜ自由にさせたのか?!それは夫に書かせるため。ふみ夫人の父親が「文士は自由にさせないと。」という言葉を守り、夫を69歳まで自由にさせて書かせることに集中させた。こんなことができるでしょうか?!その間には戦争もありました。そして4人の子供を一人で育て上げています。なんという気骨の強い女性なのでしょう。芥川賞を井上靖が42歳で受賞したときに「これで芽はでた。あとは上手に育てることだ」と決意したと言います。

芥川賞を受賞しても、毎日新聞社での仕事を続けていて専業作家となったのは44歳の時です。それまでサラリーマンとして夫を支えながら、作家として良き作品が生み出せるように自由にさせ、サラリーマン時代の38歳の時に編集者だった女性を愛人としてもそれをとがめることなく自由にさせた。すごいことだと思います。井上靖があれだけの大作を世にだせたのには、妻の支えなくしてはあり得なかったのではないでしょうか。

83歳で食道がんで亡くなりましたが、晩年は『親鸞』を小説として書こうと思っていたといいます。井上靖の書く『親鸞』を是非読みたかった。と思います。明治生まれで83歳まで天寿を全うしたというのは、日本人としては長生きに入りますし、文壇の酒豪横綱と言われるほど酒飲みだった井上靖は60代70代と年齢を重ねるごとに酒量も増えたと言います。それだけお酒を飲んでいて病気らしい病気をしていないというのは、偏食の夫を支えたふみ夫人の内助の功は間違いないでしょう。

年譜

  • 明治40年(1907年)5月・・・、北海道旭川町(現・旭川市)に軍医・井上隼雄と八重の長男として誕生。井上家は静岡県伊豆湯ヶ島(現・伊豆市)で代々続く医家でもありました。父親の隼雄は、現在の伊豆市門野原の旧家出身で井上家の婿です。
  • 明治41年(1908年)・・・父が韓国に軍医として従軍したこともあり、母の郷里・静岡県伊豆湯ヶ島(現・伊豆市湯ヶ島)へと戻ります。
  • 大正元年(1912年)・・・両親と離れて、湯ヶ島で戸籍上の祖母かの(実際は祖父の妾)に育てられました。
  • 大正3年(1914年)・・・湯ヶ島尋常小学校に入学します。
  • 大正9年(1920年)・・・浜松師範附属尋常高等小学校に入学します。入学前に浜松中学を受験していますが落第しています。
  • 大正10年(1921年)・・・静岡県立浜松中学校(現:静岡県立浜松北高等学校)に首席で入学しています。
  • 大正11年(1922年)・・・静岡県立沼津中学校(現:静岡県立沼津東高等学校)に転入しています。
  • 昭和2年(1927年)・・・石川県金沢市の第四高等学校理科に入学して、柔道部に入部しました。
  • 昭和4年(1929年)・・・柔道部を退部して、文学活動を本格化しています。
  • 昭和5年(1930年)・・・第四高等学校理科を卒業ました。井上泰のペンネームで北陸四県の詩人が拠った誌雑誌『日本海詩人』に投稿。詩作の活動に入ります。九州帝国大学法文学部英文科へ入学しました。(福岡市中央区唐人町の素人下宿に入居)
  • 昭和7年(1932年)・・・九州帝大を中退しました。京都帝国大学文学部哲学科へ入学しています。
  • 昭和10年(1935年)・・・京都帝大教授の足立文太郎の長女ふみと結婚しました。
  • 昭和11年(1936年)・・・京都帝大を卒業しました。『サンデー毎日』の懸賞小説で入選(千葉亀雄賞)、この縁で毎日新聞大阪本社へ入社して、学芸部に配属されました。日中戦争のため召集を受けて出征していますが、翌年には病気のため除隊になり、学芸部へ復帰しました。部下には山崎豊子がいました。
  • 戦後は学芸部の副部長を務めて、囲碁の本因坊戦や将棋の名人戦の運営にもかかわっています。
  • 昭和25年(1950年)・・・第22回芥川賞を受賞。受賞作は『闘牛』です。
  • 昭和26年(1951年)・・・毎日新聞社を退社しました。専業作家として、新聞社退職後創作の執筆と取材講演のための旅行が続きます。
  • 昭和30年(1955年)・・・講演のために旭川を訪れています。短編「姨捨」発表しました。
  • 昭和39年(1964年)・・・日本芸術院会員となりました。
  • 昭和51年(1976年)・・・文化勲章受章しました。
  • 昭和57年(1982年)・・・この年以降から、世界平和アピール七人委員会の委員を務めています。
  • 昭和63年(1988年)・・・ならシルクロード博覧会総合プロデューサーを務めています。
  • 平成3年(1991年)・・・ 食道がんの為死去。戒名は峰雲院文華法徳日靖居士です。墓所は静岡県伊豆市。葬儀委員長には司馬遼太郎が務めました。
  • 平成19年(2007年)・・・井上靖生誕100周年を記念して『風林火山』が大河ドラマとして放送されました。

泣ける映画特集

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井上靖名言

  • 『人間というものは、生きているということに多少の意義がないと、生きて行けないものですよ。』
  • 『努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る』
  • 『何でもいいから夢中になるのが、どうも、人間の生き方の中で、一番いいようだ』
  • 『幸福は求めない方がいい。求めない眼に、求めない心に、求めない体に、求めない日々に、人間の幸福はあるようだ』
  • 『自分で歩き、自分で処理して行かねばならぬものが、人生というものであろう』
  • 『若い人たちはもっと積極的に一期一会の精神を、日々の生活の中に生かすべきである。』
  • 『どんな幸運な人間でも、一度は死にたい程悲しくて辛いことがある』
  • 『人間の苦しみの中で、猜疑心という奴が一番苦しいものかな。火刑よりも磔よりも苦しいかもしれないな。年齢というものには元来意味はない。若い生活をしている者は若いし、老いた生活をしているものは老いている』
  • 『自分が歩んできた過去を振り返ってみると、何とたくさんのすばらしい、一生に一度の出会いがあることか』
  • 『どうやら幸福というものは、ひどく平凡なことの中にある。静かな眼、おだやかな心、健やかな体、平穏な日々、そうした状態以外の何ものでもないらしい』